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この事実を証明する最もよい例としてソヴィエト経済にまさるものがあるだろうか。
共産主義システムは、資本になんの価値も与えていない。
より厳密にいうならば、共産主義は財産という概念を認めていない。
そのため、ソヴィエト・システムのもとでの経済活動は、そもそも経済的ではなかったのである。
経済活動を経済的にするためには、共産党を資本の管理者、分配者の地位から引きずり下ろさなければならなかった。
改革の努力がすべて水泡に帰したのはこの理由によるのである。
面白いことに、経済改革の試みの失敗は、政治改革の必要性を明らかにしてしまったために、システム崩壊の過程を加速させることになった。
「ペレストロイカ」(改革)の到来によって、ソヴィエト連邦崩壊の過程は、その最終段階に突入した。
なぜなら、改革は主として政治的なものであり、前にも触れたように、ここにはいわゆる黄金期が欠けていたので、改革による経済的恩恵がほとんど生まれなかったからである。
生活水準が低下し始めるにつれて、世論も体制批判に転じ、崩壊は破局的なものになり、ついにはソヴィエト連邦の全面的な解体にまでたち至ったのである。
このパターンは、金融市場で見られるパターンとほとんど同じであるが、ひとつだけ大きな違いがある。
金融市場におけるブーム・バストのプロセスは、加速のプロセスとしてその姿を現すが、ソヴィエト・システムの場合は、全体の循環プロセスがふたつの段階に分かれているということである。
ひとつはスターリン体制の行き詰まりで終わる減速のプロセスで、もうひとつは悲劇的な破以上のように述べたうえで私は、金融市場においても、時には同様の一段階からなるブーム・バストの過程が見いだされることを説明した。
私が例に挙げたのは、アメリカの銀行システムである。
このシステムは一九一年に破綻すると、その後は厳しく規制されるようになり、再び息を吹き返すのは三五年も経ってからだった。
銀行が産油国の余剰資金のリサイクルをする役割を果たすことになった一九七○年代の石油危機および国際的な貸出しブームが終わると、銀行は動的不均衡の状態に突入した。
ソヴィエト・システムの勃興と崩壊を、このようにアメリカの銀行システムの衰亡と興隆の歴史と無理にこじつけて比較してみたのはほかでもない。
これによって均衡からほど遠い状態が、変化と無変化という両極端の状態のいずれの場合にも起こりうるということを証明したかったからである。
閉ざされた社会は革命と混乱の裏返しであり、この両極端のいずれの場合にあっても、相互作用的な過程は作動するのである。
両者の違いを測る尺度は時間である。
閉ざされた社会では、長期にわたってほとんど何事も起こらないが、革命が発生すれば、短い期間に驚くほど多くの出来事が起こるのである。
いずれの場合も、人々の認識は現実から大きくかけ離れている。
この事実を洞察することは重要である。
金融市場の文脈でブーム・バストの過程を考える時、人々はそれを加速の過程として考えがちである。
しかし、このトレンドは減速の形でも、無変化の形でも姿を現すかもしれない。
この可能性に気がつくようになれば、株式市場でも、その実例を見つけることが可能である。
たとえば大恐慌から一九七一年に至る銀行株の動きである(注2)。
歴史をひもといてみれば、無変化または静的不均衡の例はもっとはるかに多いのである。
不均衡状態についてのこの洞察は、歴史的な状況を三つの種類、すなわち静的不均衡、ほぼ均衡および動的不均衡に大別するひとつの概念上の枠組みを確立するのに役立ってくれる。
静的均衡の可能性は、参加者がつねにバイアス(偏見)のかかった現実解釈をもとに判断を下すという事実によって排除されてきた。
そこで可能性は三つになる。
ひとつは、認識の機能と参加の機能との間の相互作用性の働きによって、思考と現実との間のギャップがあまり大きく開かない場合である。
人々は経験から学ぶものである。
彼らはバイアスのかかった考え方をもとに行動するが、同時に批判的なプロセスも作動するので、そのバイアスは修正されがちである。
完全な知識は依然として望むべくもないが、少なくとも均衡に向かおうとする傾向は存在する。
参加の機能によって参加者が経験する現実の世界はつねに変化してやまないが、人々は基本的な価値を十分身につけているので、参加者のバイアスが現実の出来事からあまりにかけ離れてしまうことはないのである。
これが私の言うほぼ均衡に近い状況であり、この状況は現代西欧世界のような開かれた社会の特徴をなすものである。
このような社会と批判的なものの見方は切り離すことのできない関係にある。
このような状況はわれわれが実際の経験で慣れ親しんでいるものだけに、思考と現実との「正常な」関係といっていいだろう。
われわれはまた、参加者のものの見方と現実の状況が大きくかけ離れており、両者が近寄る気配がまったくなく、場合によってはさらにかけ離れかねない状況に遭遇することもありうる。
ひとつの極端な例では、あるイデオロギーにかじりつき、変わり行く環境に対応しようという気持ちはまったくない体制が存在する。
彼らは成功の見込みがまったくないのに、現実を自分たちの概念上の枠内に閉じ込めようとする。
広くいきわたっている教条主義の圧力によって、社会情勢も極度に硬直化するが、現実と現実に対する公式の解釈との間に大きな溝が残ったままの状態となろう。
実際、軌道修正のメカニズムが不在なので、両者はますます泥離する可能性さえある。
どんなに強制力を使っても、現実の世界の変化に待つたをかけることはできないからである。
このような状況は古代エジプトやソヴィエト連邦のような閉ざされた社会の特徴である。
それは静的不均衡の状況と呼ぶことができよう。
この逆の極端な例は、事態があまりにも急激に展開し、参加者の状況判断が追いつかないで、現実も手に負えなくなってしまう状況である。
この場合は広くいきわたっているものの見方と現実との間の禿離が限界を超え、革命またはそれに近い破局を誘発することになる。
ここでもまた、思考と現実との間には深刻な開きが認められるが、それは一時的なものとならざるをえない。
ゆさぶりをかけられてきたアンシャン・レジーム(旧体制)は最後にはなんらかの新体制に取って代わられるだろう。
このケースは体制の変革または動的不均衡の状況と呼ぶことができる。
以上紹介した三種類の分類法は、自然界に存在する水の三つの形態、すなわち液状、個体およびガス状になぞらえることができる。
この類似性は一見こじつけのように見えるが、どうしてなかなか魅力的である。
この類似性を意味あるものにするためには、ほぼ均衡に近い状態と均衡からほど遠い状態とをはっきり区別するための、ふたつの境界線を確立しなければならない。
水の場合、その境界線は温度によって表される。
歴史の場合、境界線は水の場合のように厳密で、計量可能なものではありえないが、少なくとも目に見える特徴を持っていなければならない。
さもなければ、この枠組み全体が一片の思いつきにすぎなくなってしまう。
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